七里庵
〒758-0304
山口県萩市大字吉部上鈴倉3188
電話:08388-6-0236(ファックス共通)

七里庵栞  陶工 森田 之
 陶工 青木 梢
 七里庵はご夫婦で作陶されています。



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経 歴

七里庵のシンボル写真

森田 之
1972  大阪市阿倍野に生まれる
1994  京都嵯峨美術短期大学卒業
[生活デザイン科]
1994  12代 坂高麗左衛門に師事
2000  七里庵開窯 独立
2000  各地の工芸展に出展する
青木 梢
1971  島根県津和野町に生まれる
1992  萩女子短期大学卒業
[生活工芸・陶芸]
1992  12 代坂高麗左衛門に師事
1997  牧野道泉に師事
2000  七里庵開窯 独立
2000  各地の工芸展に出展する

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作陶について

森田之 氏、青木梢 氏ともに学校を卒業と同時に、萩焼の総本家とされる松本萩宗家、第12代 坂高麗左衛門(熊峰)に師事されています。

萩焼の特徴は、素朴な色と形、軟らかい風合いではないかと思いますが、それを可能にしているのが耐火度の高い大道土です。カオリン系統の粘土で、焼結しにくいのが特徴となっており、耐火度は1,610度から1,630度と耐火煉瓦に匹敵する耐火度があるとされています。このため、急速焼成されても焼き締まることがないため、吸水性のある軟らかい風合いとなり、また、釉薬には貫入が入って、これが、いわゆる“萩の七化け”の原因となり、部分的に焼き締まりが弱いところでは、墨でぼかしたような“雨漏り手”などを生じるもととなっています。
また、萩焼の特徴として、器肌の柔らかさと相まって器肌の色がありますが、古萩焼が持つ琵琶色の発色は高耐火度の大道土あればこそと評価されています。*1

高麗の井戸茶碗を評した「一井戸、二楽、三唐津」を受け、茶陶としての萩焼を評して、「一楽、二萩、三唐津」と呼ばれる萩焼。森田ご夫妻が営む七里庵では、この“最上の大道土”を使うことにこだわり、精選されたきめの細かい大道土(細土)を用いて昔ながらの細やかな作品造り、これに砂を混ぜた“荒土”を用いるなど、風合いを工夫しながら、手作業・手仕事を惜しまず、茶の緑を美しく引き立てる“琵琶色”の萩焼を目指して日々作陶されています。

*1 橋詰隆康 『萩焼―やきものの町』三一書房

森田之、青木梢ご夫妻の窯は、萩から七里の山里にあって、 これにちなんで七里庵と呼びます。作陶について次のように話されています。

大切にしていること

マーク 土は私たちが考える最上の大道土を使用し、釉薬は自然素材に限っています。
マーク しだいに廃れてきた昔ながらの技法を大切にして、手間を惜しまずに取り組んでいます。
マーク 萩焼も、現在では色々な風合いのものが出回っていますが、流行に流されず、
   自分たちが求める色をめざし、釉薬に色をつけず土の色を大切にしています。

作品について

マーク 大道土を用いきめの細かい土に仕上げています。昔はたくさんあったような、細やかな
   作品造りをめざしています。
マーク 上述の細土[こまつち]によるものと、細土に砂を加え、少し風合いを変えた荒土による
   作品と、大きく二つの風合いの器を作っています。
マーク 全ての作品に貫入という作業をします。窯からでてきた器に紅柄をすり込む作業で、
   これにより傷を見つけることができ、器が汚れないようにもなります。
   昔は、萩のどこでもこの作業をしていました。

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手がけている焼き物

作陶されているやきものは生活雑器から茶陶まで多岐にわたります。森田之氏は茶陶や酒器、湯飲みなど、青木梢氏は食器を中心とした生活雑器と伺っていますが、このあたりは陶工であるご夫妻のこと、厳密な仕事分けがあるわけではないと感じました。それぞれが何を造られるかは置きますが、造られた作品には、窯から出した直後に紅柄を塗布する“貫入れ”といわれる昔ながらの作業を施し、制作者として品質の保持に努めておられます。
森田ご夫妻の作品はカタログをご覧ください。
(貫入れとは、窯から出した器に染料を塗布することにより、傷を見つけたり、使用後の器の汚れを防ぐ作業、装飾として行う場合もあります)


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萩焼まつり出展風景

萩焼まつり七里庵ブース

七里庵ブース

5月1日(2011年)からの五日間は恒例の萩焼まつりです。七里庵のブースを訪ねました。


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萩焼まつり1

下は徳利と馬上盃。


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萩焼まつり徳利と盃

萩焼まつり馬上盃

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先師 坂高麗左衛門の系譜

森田之氏、青木梢氏は、ともに十二代坂高麗左衛門のもと修行され、歴代の作陶を学ばれたそうです。独立後も萩焼の伝統陶芸技法の追求に精進され、日々作陶に励んでおられます。松本萩の宗家と呼ばれる坂家の系譜の概要*2を紹介します。

初代から十代 坂高麗左衛門

文禄の役(1592-1596)の際に渡来した李勺光と、慶長の役(1596-1598)の際に渡来したと伝えられる李敬が萩焼の祖として伝えられています。萩焼の創窯は、毛利家が萩に入府した慶長9年(1604)頃、李勺光、李敬ら一同も萩に移り萩松本村字中の倉で開窯しました。その後、李勺光は長門市深川湯元で亡くなりましたが、李敬は、李勺光の遺児を引き取り、松本萩の指導者となります。

始め坂倉を名乗っていましたが、後、“坂”姓に改め、寛永2年(1625)、毛利秀就のとき“高麗左右衛門”の名を拝領します。これが、初代坂高麗左衛門(助八)で、藩の御用窯として、おもに茶器を焼成したと伝えられています。

なお、坂家五代、坂助八による「略系伝書」では朝鮮本国での名に関しては“姓不知”と記されており、初代を李敬としたのは幕末の陶器解説書「本朝陶器攷証」の坂新兵衛翫土斎の提出資料―嘉永元年(1848)によるものです。

初代以降、坂家は高麗左右衛門を名乗らず、二代助八(忠季)、三代新兵衛(忠順)、四代新兵衛(忠方)、五代助八(忠達)、六代新兵衛(忠清)、七代助八(忠之)、八代新兵衛と続き、高麗左右衛門を名乗るのは九代高麗左右衛門からです。

八代新兵衛(1799-1877)は幕末の名工として知られ、翫土斉・松翁[がんどさいしょうおう]と号しました。文久9年(1826)、藩名により大阪から京都に行き、有栖川宮家などを訪れて所蔵の名器を調査し、写しを行うなど、萩焼における坂家の宗家として、幕末から明治への激動期を御用窯の当主としてその役割を果し、萩焼中興の祖と呼ばれています。

九代坂高麗左衛門(1849-1921)は、明治維新の版籍奉還にともなう御用窯廃止という坂家のもっとも厳しい危機を乗り越え、松本萩宗家の伝統を十代に継承しました。
十代高麗左右衛門(1890-1958)は九代の次男で、父の没に伴い1921年に10代を襲名。1943年に萩焼工芸技術保存者に認定されています。

十一代 坂高麗左衛門(1912~1981)

山口県生まれ。十代坂高麗左衛門の次女と結婚して坂家に入り、昭和33年十代の死去を受けて十一代坂高麗左衛門を襲名。昭和44年、一水会展で受賞、同46年には日本工芸会正会員となり、昭和50年(1975)、山口県指定無形文化財に認定されました。茶陶においては、井戸茶碗などで伝統に新風を吹き込み、萩井戸の第一人者との定評です。

十二代 坂高麗左衛門(1949~2004)

東京生まれ。昭和53年(1978)東京芸術大学大学院日本画専攻終了。昭和57年(1982)、十一代高麗左右衛門の長女と結婚して坂家に入り、昭和58年(1983)京都市工業試験場の研修を終了し、翌年から萩で作陶活動を始めました。昭和63年(1988)十二代高麗左右衛門を襲名し、号を熊峰としました。平成6年(1994)日本工芸会正会員となり、萩焼に上絵付による大和絵風の装飾性を加えた独自の作陶を展開しましたが、平成16年(2004)事故により志半ばで亡くなられました。

2011年4月に十一代の四女(十二代の義妹)が十三代高麗左衛門を襲名して宗家の歴史を繋いでおられましたが、2014年11月、肺炎のため亡くなられました。

*2 矢部良明編 『角川 日本陶磁大辞典』角川書店

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