未流窯
〒621-0029
京都府亀岡市曽我部町 寺 三国山19-4
電話:0771-24-7170(ファックス共通)


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経 歴

吉井史郎の陶歴

1955  山口県下関市に生まれる
1978  京都府立陶工専門学校卒業
1978  清水六兵衛に師事
六代  清水六兵衛
七代  清水六兵衛
1986  宇治・朝日窯で修行
1991  未流窯開窯 独立
1991  全国各地で個展開催
以降、各地で個展を開催する
2000  連房式登窯 築窯
2009  半地下式穴窯 築窯
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作陶について

亀岡の付近は、当時丹波国南部に属しており、篠窯跡群[しのようせきぐん]と呼ばれる一大窯跡群があります。篠窯[しのよう]は、平安京への焼き物の供給地として栄え、生産された須恵器や緑釉陶器は全国各地へも供給されていました。平安朝の時代には日本を代表する焼き物の産地であったようです。当地が焼き物の一大生産地となるには、良質な陶土や燃料とする薪の入手、消費地との地理的条件など、いくつかの条件が揃っていたことが考えられています。亀岡を含むこの地は断層角盆地で、保津川峡を成す山々は数万年の地殻変動によって平野が隆起したものと考えられています。保津川以外出口を持たない地形は、太古は大きな湖であったといわれ、このような地形的な条件が、良質な陶土を得るための素地になったことが想像されます。

良質な陶土の確保、登り窯を焚くことが可能な環境にあって、吉井史郎氏は、採取してきた土を、水簸[すいひ]し製土して、これを、単味で用いたり、外の産地の土と合わせて用いたりと、いろいろと工夫して作陶されています。鍛錬された轆轤捌きからは、力強く勢いのある器、温かくふくよかな器など、土味や釉薬と相まってさまざまな表情の器が生まれています。“自然に”を旨とした作陶からは、主張しすぎない、むだのない形が生まれ、シンプルであることで、盛りつけた料理をよく引き立たせる器に仕上がります。

マーク

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手がけている焼き物

登り窯を焚ける環境にあって、唐津・安南・伊羅保・粉引・刷毛目などの李朝の時代から受け継がれた焼き物や、釉薬を研究して生まれた玄釉など、さまざまな種類の焼き物が焼かれています。

用途を限る必要のない焼き物ですが、ぐい呑み、徳利などの酒器、飯碗、湯飲み、皿・鉢類、片口などの食器や土鍋。さらに花器や茶器など、たくさんの器があります。
吉井さんの作品はカタログをご覧ください。


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登り窯風景

登り窯の正面

窯の正面

登り窯の大きさは内寸法で、幅約1.3m、高さ約1m、長さ約1.2m。
先師から譲り受けた老朽窯を、自身の作陶環境に合わせて再構築したそうです。


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登り窯の側面

窯の側面

正面の窯が焚き口、焚き口に続く窯が焼成室です。焼成室には色味孔があり、炎の色を見て窯の温度を測ります。焼成温度は1200°から最高1300°前後に保たれます。


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窯出し

窯出し

約40から50時間焼成したあと、焚いた時間と同じだけ時間をかけて冷まします。焼成から約3~4日間、いよいよ窯出しです。


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清水家の先師

吉井史郎氏が陶芸の門を叩いた若い頃の修業先。六代からは、成形、窯焚き、七代からは造形理念やその重要性を学ばれたそうです。氏の作陶の方向性を導いた、清水家歴代の先師の経歴などを紹介します。

初代 清水六兵衛(1738~1799)

初代清水六兵衛が生まれたのは元文3年(1738)8代将軍吉宗のこの頃で、生まれは摂津国、現在の高槻市。幼名は古藤栗太郎といった。寛延年間の頃、京都に出て清水焼の海老屋清兵衛に師事し、明和8年(1771年)、五条坂建仁寺町にて開窯、六兵衛と改め初代古藤[ことう]六兵衛こと初代清水六兵衛(愚斎)を名乗ったのが六兵衛窯の始まりです。

初代が窯を開いたのは10代将軍家治の頃で、京都の焼物は、京焼きの祖と呼ばれる仁清(生没年不詳)から尾形乾山(1663~1743)を経た頃。いままで大名や社寺を中心に買い取られていた焼物から町売りが主流になってきた時代です。天明2年(1782年)には、五条焼物仲間と呼ばれる問屋組織が結成されるなど、京焼は大いに発展の途にあったと思われます。

初代の作陶は、黒楽茶碗信楽写し、高麗写しである御本刷毛目、高麗茶碗などで、大胆な箆使いとさび絵による洒脱な模様が特徴で、寛政11年(1799年)に亡くなるまで、5条坂窯にあって中心的な役割を果たしました。

二代 清水六兵衛(1790~1860)

初代六兵衛が亡くなったとき2代目はまだ10歳の少年で、六兵衛窯はやむなく休窯となりますが、文化8年(1811年)20歳のとき2代目六兵衛(瀞斎)は家業を再興します。

作陶は、初代の作風を継承するとともに、自由闊達な箆目、轆轤目を駆使した作風が特徴的で、六兵衛様と呼ばれる表現は、2代目のときに基礎が固められてとされています。このほか、瀬戸焼信楽焼高麗御本刷毛目などの抹茶器、呉州赤絵乾山写しなどを手がけています。

天保9年(1838年)次男の栗太郎に家督を譲って隠居し、六一を名乗ります。3代目に家督を継承した後も、越後国長岡藩10代藩主牧野忠雅の求めで長岡の土を用いて作陶し、天保14年には、長岡に赴いて御山焼の窯を開くなど、活動を続け清水家の再興に尽力したと伝えられています。

三代 清水六兵衛(1820~1883)

三代六兵衛(祥雲)は2代目の次男として文政3年(1820年)に生まれています。2代目に作陶を学び、南画家の小田海僊[かいせん]に絵を学んでいます。作陶は、先代・六一を継承するなか、豪放で大胆な作風であったといわれています。

嘉永元年(1848年)には、五条坂芳野町の丸谷嘉兵衛の登り窯を購入し、嘉永6年(1853年)には、禁裏守護職の大久保大隅守、長谷川肥前守の求めに応じて陶製六角雪見燈篭の大作を制作しています。

安政2年から5年(1855-1858年)の頃、井伊直弼や周辺の茶人の茶会では、「古清水色絵写」「雲鶴写」「絵瀬戸黒絵模様」「黒平藤波の絵」「唐津写し」など、六兵衛作の茶碗が使用されたとあり、大いに活躍していたことが伺えます。

この頃の時代背景は、安政3年(1856年)、吉田松陰が松下村塾を開き、同6年(1859年)には井伊直弼による安政の大獄が起こり、翌年の安政7年(1860年)桜田門外の変、文久2年(1862年)には新撰組結成など、幕末から明治期への激動期にあって、清水家に隆盛をもたらした功績は、清水家中興の祖と仰がれています。

治元年(1868年)“古藤六兵衛”を改め、“清水[しみず]六兵衛”と改めたのは三代のときです。

四代 清水六兵衛(1848~1920)

明治16年(1883年)三代没後、家督を相続して四代六兵衛となり、絵画を塩川文麟に師事し、号は師文麟から与えられた祥麟と号したとあります。

明治17年(1884年)に、京都博覧会で銅牌を受賞し、明治22年(1889年)には京都陶磁品評会の審査員を務めています。

作風は三代の豪快な作風に比べて温和であるとされ、信楽瀬戸御本写し伊羅保写し、乾山や仁清風の色絵陶磁など伝統的なものを手がけています。代表作に「蟹置物」「色絵秋草図大皿」などがあります。富岡鉄斎、幸野楳嶺とは長い親交があり、文人として知られています。大正2年(1913年)に家督を次男栗太郎に譲り、隠居して(六居)と号しました。

五代 清水六兵衛(1875~1959)

四代清水六兵衛の次男。明治20年(1887年)に幸野楳嶺の門下となり、明治21年には京都府画学校に通いながら、祖父三代六兵衛、父四代六兵衛に陶芸の手ほどきを受け、大正2年(1913年)に五代六兵衛を襲名。祥嶺と号しました。

作陶は、音羽焼の研究、大礼磁(釉薬)などの技法の確立、アールヌーボーの影響を受けた新しい意匠や、琳派風の伝統的な器物を創作するなど、作風は幅広く多彩であったとされます。

活動は、作陶にとどまらず、京都陶磁器試験場の設立に参画(明治28年)、神坂雪佳とともに佳都美会を結成(明治40年)、ランス、サロン・ドートンヌ装飾美術部会員(大正11年)、京都五条地域の陶芸家による五条会結成(昭和12年)、京都工芸8団体による京都工芸院結成、院長に推挙(昭和12年)、帝国芸術院会員(昭和12年)など、主だった経歴をみても、京都の陶芸界を代表する陶芸家として活躍されたことが伺えます。

これまでの清水[しみず]を清水[きよみず]と改めたのは五代六兵衛のときになります。(昭和3年、1928年)。

六代 清水六兵衛(1901~1980)

五代六兵衛の長男。明治34年に生まれて、昭和20年(1945年)に六代清水六兵衛を襲名して禄晴と号しました。

大正9年(1920年)京都市立美術工芸学校絵画科、続いて京都市立絵画専門学校に進学し、大正14年(1925年)、父五代六兵衛を師として作陶の道に入り、中国古陶磁の研究、アールヌーボーの研究に専心して、造形および釉薬の研究に熱中したとされます。

昭和2年(1927年)帝展初入選「母と子花瓶」、昭和6年(1931年)帝展特選「染付魚文盛花器」、昭和9年(1934年)帝展特選「銀ラン文果物盛」、以後、京都市展、京都工芸院展、官展に多くの作品を出品し、国内外限らず多くの賞を受賞。昭和12年(1937年)京都工芸院常任理事、昭和31年(1956年)日本芸術院賞受賞「玄窯叢花瓶」など、官展の重鎮として活躍されています。

作陶は、自ら創案した紫翠泑黒泑藍泑玄泑赫斑泑銹泑など多様な釉薬を用い、晩年は琳派を彷彿させるような作行となり、清水焼の一つの到達点を見せたと評されています。

六代六兵衛が生きた時代背景を見てみますと、作陶に入ったのは、大正デモクラシーの中で、自由な創作が求められた時代。京都でも赤土会など陶芸の革新的運動が起こり、翌年の大正15年(1926年)には、柳宗悦らが起こした民芸運動が始まっています。この二年前の大正12年(1923年)、東京では関東大震災。昭和14年(1939年)に第二次世界大戦勃発、昭和20年(1945年)広島・長崎に原爆投下、終戦。この年には五条坂一帯も空襲を受け町の半分が崩壊したと伝えられています。

戦前、戦中・戦後の動乱期のなか、陶業の可能性に専心して美術工芸の維持発展に寄与した功績は大きく、昭和51年(1976年)文化功労者顕彰を受け、没後に勲二等瑞宝章を賜りました。

七代 清水六兵衛(1922~2006)

陶芸家塚本竹十郎の三男として愛知県に生まれる。昭和15年(1940年)名古屋高等工業学校に入学、復員後の昭和21年(1946年)東京の工芸講習所に入り、昭和24年(1949年)東京芸術大学鋳金専攻に入学し、芸大在学中から作陶を始めています。

昭和26年(1951年)六代清水六兵衛の長女と結婚し、同年、清水洋士の名で日展で入選を果たしています。昭和32年(1957年)には日展で特選と北斗賞を受賞。昭和38年(1963年)、京都市立美術大学陶磁器専攻の助教授となり、昭和41年(1966年)には清水五東衛の名で最初の彫刻を発表しています。

昭和43年から清水九兵衛の名で作品を発表、以後20年近く彫刻に専心されています。昭和56年(1981年)六代清水六兵衛が急死(1980年)したため、第七代清水六兵衛を襲名し、以後作陶と彫刻制作に励む中、平成20年(2000年)に六兵衛の名を長男柾博[まさひろ]に譲り、以後は彫刻の創作に専念されました。

* 矢部良明編 『角川 日本陶磁大辞典』角川書店

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